社会人(勤労者)が自発的にアマチュアの活動に参加することに意義があるとすれば、それは何なのかということについて改めて考えておきたいと思います。
〈経済的活動の本質〉
それを考えるために、経済的(労働的)活動のある本質を(AT的に)見極めておかなければなりません。
その本質は「取引き」にあります。
つまり、経済的(労働的)活動とは、利益(もうけ)のために、自分を手段(労働力)として提供する活動のことです。
それは取引きです。
利益はむろん「自分のために」ではあるでしょう。
確かに利益はおのれ(あるいは家族)の生活のため、あるいは諸々の欲求を満たすために必要ですが、人間にとって生活や欲求を満たすことが最終的な目的なのでしょうか?
それ自体ひとつの手段にしか過ぎないのではないでしょうか。
ひとは、ただ生活し欲求を満たすというだけで、本当に満足できるものなのでしょうか?
〈アマチュア活動の本質〉
一方、アマチュアの活動の本質とはAT的にはどういことを意味するのでしょうか。
アマチュアの活動とは、おのれ自身のために、自分自身を遂行(あるいは展開)する活動、といえます。
人間は、その行為(活動)において、おのれをあらわす存在者です。
そして、その行為の純粋さとは、目的と、それを遂行する者(こと)との一致にかかっているのです。
つまり、その行為自体が目的そのものであるような、それが可能となるような目的へと目指された行為のみが、真の純粋な行為といえるのです。
〈ひとが「もの」になる時〉
もしこの目的と行為の一致関係がくずれてしまうと、行為はもはや行為そのものではなくなり、単なる手段(道具)へと下落してしまうでしょう。
〈真に純粋な人間の行為〉
そしてすべての目的が、最終的には、「(純粋に)おのれ自身のため」に収斂されるのだとすれば、その目的に対応する行為とは、おのれ自身のために、まさにおのれ自身へと関わってゆく行為のことなのです(なぜなら行為とは目的への関わりにおいてその本質をもつからです)。
つまり真に純粋な行為とは、まったき意味での「自愛」のことなのです。
〈経済的活動の限界〉
それに対して、経済的(労働的)活動の純粋であることの困難さは、その目的がおのれ自身(目的そのもの)ではない「何か」(例えば、生活、世間的成功)という目的に、つまり「実用的目的」に常に関わらせられている、というところにあるのです。
たしかに生活や世間的成功は、おのれのためになるかもしれません。
しかし生活力は自分や家族を養ってゆくための大切な能力のひとつであるかもしれませんが、おのれ自身ではないし、むろん世間的名誉を求めることも、世間のおのれに対する自己承認欲求を満足させてはくれるけれども、それはひとつの欲求にすぎないのであって、おのれ自身(目的そのもの)ではないのです。
ひとは、さし当たって経済的(労働的)活動をとおして、おのれを「実用的目的」(自分ではない何か)を獲得するための手段として活用、展開することにならされていますが、手段は「手段」である以上決しておのれ自身(目的そのもの)とはなりえないのです。
〈自己実現〉
そして、経済的(労働的)活動の本質が、取引きにあるのだとすれば、その意味において経済的(労働的)活動は、純粋な行為とはなり難いのです(というのも、そもそもおのれ自身(精神的存在)とは決して「もの」によっては交換(取引き)できないものなのだから)。
ひととは、徹頭徹尾、目的そのものと自分の行為(活動)との一致においてはじめておのれ自身をあらわすもの、つまりおのれ自身であるものなのです。
従ってまったき意味での自愛の遂行だけが、純粋におのれ自身の行為(おのれ自身であること)といえるのです。
〈愛の本質〉
そして自愛とは、おのれ自身へと深まってゆく精神的成長への愛のことです。
愛とは、取引きと反対のものであり、取引きが常に条件付けられたものであるのに対し、愛とは現実への「無条件の」働きかけ、つまり「無条件の肯定的な関わり(合い)」ということなのです。
そしておのれ自身へと深まってゆくことと、おのれの内で愛が愛(取引きではなく無条件性)として純粋に深まってゆくこととは同じことを意味するのです。
以上の意味で、最終的には、愛の深化こそが、人間としてより純粋になってゆくことなのであり、人間としてより本質的になることなのであり、つまり本来の姿になってゆく(自己実現してゆく)ということなのです。
〈まとめ〉
アマチュアの活動に自発的に参加することに意義があるとすれば、それは、日々の経済的(労働的)活動の中で見失ってしまった(見失いがちな)自らのおのれ自身の取り戻しであり、あるいは、何度もおのれ自身という出来事を味わい返す、ということにあるのです。
文:けいちゃん