え!アマチュアシアターには、独自の演劇論もあるの!!て思ったあなた、独自の演劇論じゃありません、孔子の音楽論です、そうです、パクリです。
でも、人間の思想文化というものは、そもそもパクルことによって継承され、そしてまた現在に生(活)かされてゆくものなのです。
ATの発起人であるけいちゃんは、この孔子の音楽論を深く理解したとき、ATを立ち上げようと決意したのです。
(本当かあ?)
そして、この孔子の音楽論をけいちゃんに紹介してくれたのは、下村湖人先生(←尊敬してるから)です。
そうです、下村先生が孔子(論語)の思想を現代に伝えてくれたことによって、アマチュアシアターも可能となったのです。す、すごい!!
(何がすごいんだあ?)
孔子について知らない人のために、簡単に説明。
紀元前5世紀の中国のひとです。政治家であり、思想家であり、教育者です。
人類の歴史の中でも最も偉い人であり、立派な人であり、まさに聖者中の聖者です。
中国人は学校で、孔子を中国の歴史の中でも最も偉い人と教わります。
『論語』は彼の弟子達が書いてまとめた孔子の言行録です。儒教の根本経典のひとつです。
日本にもむちゃくちゃ影響を与えた書物です。
孔子の音楽論はこの論語に入っている彼の言葉の断片の中にあるのです。
孔子についての解説はこれで終わり。
下村湖人先生のことを知らないひとのためにも、簡単に説明。
下村湖人(1884-1955)戦前戦後にかけて青年教育に専心した当時屈指の社会教育家。
作家。思想家。
作家としては『次郎物語』があまりにも有名。日本の教育文学の不朽の名作。
現在でも『次郎物語』を読んで、教員をめざすひとは多いです。
『論語物語』は、下村先生が論語(孔子)の思想を現代の人たちに伝えたいという一念で書かれた最高の力作。
論語の断片的な言葉から得た感激を物語という仕方で再構成することを通して、論語の世界が平易な文章で表現されている。
そして読む者は登場人物たちの中に自分の隣人たちや自分自身の姿を見出すのです。
下村先生についての解説はこれで終わり。
下村先生の著作:『次郎物語(全五巻)』、『論語物語』、『下村湖人全集全十巻』(国土社)
さて、それでは、いよいよ、論語に見られる孔子の音楽論、それを「超訳」している下村先生の舞台芸術論をご紹介します。
原文はすごく短いです。
しかしそれを訳している下村先生の舞台芸術に対する理解は、深遠で、しかもそれをここまで噛み砕いて孔子の音楽論として解釈している下村先生の文章は、まさに絶品、だから「超訳」なのです。
きっと孔子も喜んでおられることと思います。
孔子は、音楽にも深~い造詣があり、楽器演奏の名手としても有名であった。
孔子の言葉が語られる状況は、魯の国の要職(司空)にあった孔子が、魯の楽長(いわば国立の音楽団の楽長)に音楽の本質について説くところ。
原文:
子語魯大師樂曰、樂其可知已、始作翕如也、従之純如也、皎如也、繹如也、以成、
読み下し文:
子(し)、魯(ろ)の大師(たいし)に楽(がく)を語(つ)げていわく、楽はそれ知るべきなり。始めて作(おこ)すとき翕如(きゅうじょ)たり。これを従(はな)てば純如(じゅんじょ)たり。皎如(きょうじょ)たり。繹如(えきじょ)たり。以(もっ)て成ると。
( 八イツ篇 )
下村超訳:
孔子はそこで楽長(がくちょう)を座(ざ)につかせて、言葉をつづけた。
「音楽の世界は一如(いちにょ)の世界じゃ。そこでは、いささかの対立意識も許されない。まず一人一人の楽手(がくしゅ)の心と手と楽器とが一如になり、楽手と楽手とが一如になり、さらに楽手と聴衆とが一如になって、翕如として一つの機(おり)をねらう。
これが未発(みはつ)の音楽じゃ。この翕如たる一如の世界が、機(き)到(いた)っておのずから振動を始めると、純如として濁りのない音波が人々の耳朶(じた)を打つ。
その音はただ一つである。
ただ一つであるが、その中には金音もあり、石音もあり、それらは厳に独自の音色(おんしょく)を保って、けっしておたがいに殺し合うことがない。
皎如として独自を守りつつ、しかもただ一つの流れに合(がっ)するのじゃ。
こうして、時間の経過につれて、高低、強弱、緩急、さまざまの変化を見せるのであるが、この間、厘毫(りんごう)の隙もなく、繹如として続いていく。
そこに時間的な一如の世界があり、永遠と一瞬との一致が見いだされる。
まことの音楽というものは、こうしたものじゃ。
聞くとか聞かせるとかの世界ではない。
まして自分の腕と他人の腕を比べたり音楽のわかる者とわからぬ者とを差別したりするような世界とは、似ても似つかぬ世界なのじゃ。」
( 『論語物語』「楽長と孔子の目」より )
【 少しの解説 】
「一如」という言葉がキーワードとして出てきますが、ここのところだけ、若干解説しておきたいと思います。
ただわたしは学者ではないので、学問的に裏付けをとっているわけではないのでそこのところはご了承ください。
ただ、この文章(超訳)の主意をわかってもらうためのけいちゃん流の解説・解釈だと思って読んでください。
「一如」とは、ひとつであること、という意味です。
「一如になる」とは、ひとつになる、という意味です。
この「ひとつであること」「ひとつになること」という意味は、深遠で、西洋哲学の歴史の中でもさんざん議論されてきたテーマです(発端は紀元3世紀新プラトン主義プロティノス)。
西洋哲学では「一性(いつせい)」と呼びますが、おおむねこれに対応する言葉が「一如(性)」であるといってもいいと思います。
では、一如性(ひとつであること)の特徴とはなんでしょうか。
一如を「混じりけがない」と定義すると、
①混じりけがない、つまり、それ自身としての個性(内容)がある。
②混じりけがない、つまり、まったくの無差別な状態である。
③混じりけがない、つまり、純粋である。
では、これを人間に当てはめるとどうなるでしょうか。
人格的な一如性、一性があるひとは、
①魅力がある、なぜなら、自分自身(個性・内容)を持っているから。
②愛情深い、なぜなら、自かつ他において差別することがなく、すべてを包み込むから。
③人格的に安定・安心している、なぜなら、自分自身の本来のありよう(純粋なる自己)に安住しているから。
ではでは、さらに、これを舞台芸術、今度は、演劇に当てはめてみると、どうなるか。
演劇には、いくつもの、一如の段階があります。
上の超訳の文脈でいくと、
①役者と役がひとつになること
②各共演者がひとつになること
③役者と観客がひとつになること
③の段階まで来ることを孔子は、翕如という。
翕如はやがて、機が熟すると、物語を超えた「純粋なる場(未発の場)の出来事化」へと発展する。
これを純如という。
そこにおいて役者も観客もひとつとなってその舞台(場)で今まさに起きていることに立ち会うことになる。
そしてそれは進展とともにひとつの純一なるまとまりとして、一つの流れとなってその一如性を深めてゆく。
これが皎如だ。
つまりまとまりの中でさまざまな個性がその独自の輝きを放ち、かつそのさまざまな個性を殺さずにしてしかもひとつのものとして全体の調和を保っているのだ。
やがてその「純粋なる場(未発の場)の出来事化」は、時間の流れに従って、さまざまな変化を伴いながら、展開してゆくが(繹如)、最後には、過去現在未来という縦の時間軸を超えて、永遠と一瞬の一致という時間的な一如なる瞬間を出来事化せしめる。
そしてまさにこの「一如なる瞬間」を生起せしめる(創造する)ことこそ、孔子にとってのまことの音楽なのであり、わたしにはそれはそのまま、まことの演劇・舞台芸術論としても通じるものなのではないかと思われるのです。
そしてわたし思うに、この「まこと」をきっと可能せしめる原初であり最終的なものは、演劇製作者(役者、演出、舞台効果等)各自の人格としての一如性(ひとつであること)、にあるのではないかなあと思うわけです。
また原文の中では、「翕如」、「純如」、「皎如」、「繹如」という難解な言葉が出てきますが、これらはおそらく「一如性」をそれぞれの様相において言い分けようとした時に出てきた言葉だろうと思われます。
つまり、言い方の違いはあれ、すべてが「一如性」を表現しているのです。
ふう、ちょっと最後の方は大変でしたね。難しかったかな、うまく書けていたでしょうか。
【 おまけ 】
最後に、おまけとして、もう一つの孔子の心に残る言葉を紹介しておきたいと思います。
これも『論語物語』の同じ章で、下村先生が超訳されているのですが、芸術論・人間論としても、またアマチュアシアターにとってもとても関係の深い興味深い箇所なので、原文と、それを典拠として下村先生が創作された文章をそのまま載せておきます。
原文:
子曰、詩三百、一言以蔽、曰思無邪、
読み下し文:
子(し)いわく、詩三百、一言(いちげん)以(もっ)てこれを蔽(おお)う。いわく、思い邪(よこしま)なしと。
( 為政篇 )
下村超訳:
詩でも音楽でも、究極は無邪の一語に帰する。
無邪にさえなれば、下手は下手なりで、まことの詩ができ、まことの音楽が奏でられるものじゃ。
この自明の理が、君にはまだ体得できていない。腕は達者だが、惜しいものじゃ。
( 『論語物語』「楽長と孔子の目」より )
※ 「思無邪(しむじゃ)」、「おもいよこしまなし」と覚えてね。意味はもうわかるよね!!
以上、アマチュアシアターの演劇論でした。おしまい。
参考図書:論語物語 (下村湖人 著、講談社学術文庫)
文:けいちゃん