ATとは

このレポートの最後にATとは何か、という話を少ししたいと思います。

 

りんごが印象的な話をしていました。実はりんごのお祖母様が、公演の1週間前に危篤になられたという。りんごはさすがに本番前で、そのことをみんなに言えず、人知れず不安な状態であったとのことでした。お祖母様がいよいよとなったらどうしよう、公演どうしようと、一人苦悶していたのです。幸い、公演が終わるまでは、お祖母様は無事だったようで、公演にも、りんごの出演にも問題はありませんでした。

こんな状況になったら誰でもびびりますよね。では、もしお祖母様が亡くなられた場合、どうするか?ですが、もし一週間を切っていて、本番前もしくは本番当日にお祖母様が亡くなられたとしたら、まずはりんごの気持ちを聞いて、りんごの意思を尊重するでしょう。りんごが降りると言えば、もちろん、その意思を尊重して公演はその時点で中止にすることになるでしょう。もしそれが本番当日なら、りんごはお祖母様のところへ行かせて、メンバー全員で、劇場で、お客さんに中止の旨を伝えて、深々と頭を下げることになるでしょう。仮にもし、りんごがそれでも出演したいと言ったら、もちろん公演はやるでしょう。

 

ただ忘れてはならないのは、アマチュアシアターは、社会人中心のアマチュア劇団なのであって、各自が社会人として必要に迫られれば、もちろんそれを最優先し、それで誰かが降板ということになったとしても、それはあっていいこと、公演中止になっても、それはあってもいいことなのだ、ということです。アマチュアのグループである以上、一般的にはというか、世間的には、それは趣味であり、遊びにすぎません。だから、家族に大事があれば、そちらを優先することは当然だし、それで降板したり、公演中止になっても、いいのです。

 

アマチュアシアターにとって大事なのは、そういった現実世界の中での様々な制約をかいくぐりつつも、なんとか純粋に、演劇活動を続けるということです。それは生活のためだけの活動にはない価値を見つけてゆくということでもあります。つまりそれは真の意味で自分自身のための活動のことなのです。そしてその過程の中で、もし、最終的に公演を成立させられたとしたら、それはきっと、日々の地味な社会生活(主には経済生活)を営んでいるわたしたちに与えられた、ご褒美なのだと思います。ご褒美はいつももらえるものではないけれど、それはそれとして、不可能ではない現実の可能性をあきらめず追っていくこと、その全体を楽しむこと、それがきっと、アマチュアシアターという態度のことなのだと思います。

そして公演を成立させるという可能性を追求するとともに、それへと向かって行われる稽古の、そのひとつひとつが、かけがえのないものであって、それこそがアマチュアシアターの活動の「本体」なのです。もちろん公演は大事です。稽古だけして、本番を体験できないのじゃ、演劇グループとしては、しょうがないでしょう。また確かに公演というものは、活動のひとつの目安になるし、方向性を与えてくれます。

しかしアマチュアシアターにとっては、公演の実現は第一のものではないのです。社会人の私たちが、わざわざ時間をとって、手間暇かけて、純粋に演劇活動をする、純粋に表現を追求する、純粋に自己自身を追求する、その活動の純粋性こそがアマチュアシアターにとって第一のものなのです。純粋性とは、取引しないということ、無条件性のことです。つまりその行為によって、何かを得ようとすることではなく、その行為自体が同時に目的であるような、そういう行為のあり方のことです。そしてアマチュアシアターの活動を通して、メンバー一人一人が、かけ引きなしで、他者と出会い、自己と出会うこと、つまり現実と純粋に関わってゆけるようになること、それがアマチュアシアターにとって第一のことなのです。なぜならそれは、日々の生活の中で見失いがちな、「わたしが生きる」というこの不可思議な出来事を、わたし固有のかけがえのない絶対的価値として、何度も味わい返すということなのですから。

(参考)アマチュア活動の意義 

 

アマチュアシアター第三回公演の長い長い(長すぎる)レポートは以上です。最後までお読みいただきましてありがとうございました(一体どれだけの人がこの長いレポートを最後まで読むだろうか(^_^;))

この記録は、アマチュアシアター自身のために書かれたものですが、お芝居をやっている方や、やりたいと考えている方、またアマチュアの活動をはじめたいと思っている方の、なんらかの参考になれば、幸いです。

 

最後に、第三回公演のエンディング曲、オレンジレンジのキズナを聞いておしまいにしましょう。

 

おしまい

 文:けいちゃん

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